「小説だってサブカルチャーから始まったんだ」、と言う論法をよく見かけるが、その後サブカルチャーを本気で芸術にした努力をすっとばしてもらっては困る。逍遙然り。白樺派然り。
芸術の大半は卑俗な文化にルーツを持っているだろう。だからといって芸術とサブカルチャーに境目がない、と言うのは暴論である。芸術となった文化は、必ず激しい脱皮の時期を持っている。そしてその時期をになった作り手は、明確に脱皮への意志を示すのだ。
「私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。」(有島武郎「生まれ出づる悩み」)という一文から小説を始める作家の決意を、私たちは受けとめねばならない。
世阿弥の文章が、神話的歴史を語って、痛切なまでに申楽の神聖化を志向するのも同じ決意なのである。芸術は何となくでは生まれない。文化はほうっておけば芸術になるというものでは決してない。
芸術とは何か? 現代ではすっかり定義が避けられるようになったが、西田幾多郎は真実在の模倣、ときちんと定義する。真実在、純粋経験とも言える真実在、それを写すこと。いい定義だ。芸術が定義不能と主張するなら、本気で西田に反論する力がなければいけない。
最近は、知的文脈でも芸術を避けてサブカルチャーをもてはやす志向が強いが、そもそも「大衆性」の定義を本気で考えているか頗る疑問である。
サブカルチャーを「制度としての芸術のネガ」、と言っておけば事足りると思ってはいないか? 「「制度としての芸術」に抑圧される人気の文化」、とぐらいしか考えてはいないか? 支持者の側から、どうもまともな定義を聞いたことがない。
誤解されがちのようだが、芸術の側は、大衆性について明確な定義を持っている。大衆性の本質については、芸術の人間の方が、強力な理解を持っている。何が起こっているのかも、人がそこに引き寄せられる理由も、みな知っている。
ではサブカルチャーを支持する知識人は、芸術が何であるか知っているのだろうか? 方や「真実在の模倣」で、方や「制度」では随分知的に分が悪い。菊池寛などは、芸術が何であるかよく知って、意識的に大衆文化に転向した人間である。だから彼は非常によく両方を知っている。だから菊池には芸術への敬意もちゃんとある。安易な混交は絶対にしない。
サブカルチャーを本気で支持するなら、せめて大衆性とは何かを本気で考えるところから初めて欲しい。そしてそれを支持した場合の、終局地点まで責任を持ってもらいたい。
これは戦後の文学研究や文化研究のみならず、歴史学研究でも顕著であったわけだけれども、「民衆」や「大衆」をふりかざせば勝利、という文脈があった。
知的エリートは、自らと大衆との乖離に悩んだわけである。だがもうそんな呪縛は解き放たれて久しい。今や最初から大衆であった人間が、大衆文化を論じているだけである。真実在に通じているあの過酷な道を知ろうともせず。
彼らは大衆文化を喜々として持ち上げて煽るけれども、決してその文化の行く末に責任を持ちはしない。その文化が引き起こすことは、彼らのせいではなく、大衆のせいだと言うだろう。いざとなれば、ただちに大衆の中に身を隠してしまう。
私たちは、自分たちの信じるものを、ちゃんと責任をもって、最も高いところまで意識的に高めていかなければならないのである。
(2014.9.19)