法律と文学者

 法律ができて何かが変わるということはない。法律ができるということは、すでにずっと以前に、深いところで何かが変わっていたということである。法律はそうした変化の最後の析出にすぎない。

 人文学者は法律ができて驚いたりしてはいけないし、批判したいと思うのであれば、その対象は法律そのものであってはならない。

 例えば高見順は警職法改正の際にも、作家として意見を述べている。しかし当時の彼があくまで批判していた対象の中心は、文学のあり方である。そこは決して誤解してはならない。文学者が、人間のあり方を深く定める文学をしっかりと保つのでなければ、文学者の政治への批判など何の意味もない。

 高見にはこんな言葉もある。「私は平和に反対ではない。その私の意見は既に小説や評論で書いてきている。私が反対したのは、文芸家協会がそういう決議をするという点にあった。…主なる反対理由は、決議というものを重視することに秘められた政治主義的な考え方に反対だったのである」

 自分たちがなすべき一番大切なことをせずに、レディメードな批判方法に狂奔してはいないか。高見順は、文学者の誇りをもって、文学者として批判した。文学が根源にあると信じていたからである。

(2013.12.6)

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