どうにもならない閉塞された人生。その中での小さな癒し。その中での小さな美しさ。何にもならないけど、そこに祈りと癒しがある。……という小説はもうやめにしないか。最早紋切りだ。
田舎の土着的な閉鎖性も、都会のキッチュな虚無性も紋切りだ。国内で人生経験を重ねていれば、現実は違うといくらでも言えるのに。正直「文学」をそういうものだと決めたがる、読者と作家の妄想の中にしかないのではないか。
閉塞感はあるのだろう。所詮「我々は目の前のものしか見えない」と。しかし作家が全体を見ることを放棄していいはずがない。文学は世界観をあずかるのだ。「目の前のボタンしか見えない」ではいけない。ボタンが終局的に何を意味しているか洞察することが、本来の作家の仕事だ。
狭い視野の人間を描くということは、当然その世界観を推奨するということである。虚構といって逃げられるものではない。どんな時代でも、作家はあるべき人間像を提示する役割を担う。本当にその世界でいいのか? 全てが動かず、癒しだけが残される、それが我々の望む世界か?
小説家の悪い意味での抒情化が目立つ。あるのはどこにむかっているかわからない、瞬間の感性だけだ。気の利いている表現だが、だから何だ? というものが多すぎる。答えられず、結局、「美しいからいいんだ」、となる始末だが、いいわけない。そんな蚊柱のような「美」などいらない。
抒情は相当に強力な理論体系がある時代にこそ力を持つ。「私の感性」などというものは、本来とても頼れない、物凄く脆弱なものなのである。そこに自覚がなく、「私の感性」だけで戦えると思い込んでいる「芸術家」は愚かである。
天才的な感性がのびやかに活動していたように見えるのは、大いなる理論的な時代の後押しがあったからである。芸術家はその上で感性ということを言う。感性の内に抜き差しならない理論がある。
近年、悪しき感性主義の「芸術家」たちの異様な傲りが目につく。彼らは理論を殊更に避けるし、「理論的に語ったら、感性が失われる」と嘯きさえする。そんな感性など最初から無いに等しい。
一方、「理論」を語るようで、その理論をまともに追っていけば、「未決定状態に自分をおく」、「最後に感性的飛躍に賭ける」、といった理論になっていないものもよく見かける。最近理論家もいなくなった。思想解説者だけは沢山いるが。
世界のひずみはいよいよ深く激しくなっていくし、我々は祈ったり慰めている場合ではないのである。立ち止まっても、いよいよ悪くなるだけだ。流されるのではなく、盲目的に進むのではなく、次の世界を本気で理論的につかんで進まなければならない。
人の精神とひとつの言葉をつかさどる文学は、その役目がある。今、脆弱な感性に身をゆだね、立ち止まることは文学の敗北であり、人間の敗北になる。事は簡単ではない。しかし我々の時代の明確な課題である。その果てに、優れた感性が真に生きる時代も来るのだ。
(2015.1.27)