近代的個我の行末と小説

 戦前昭和の文芸批評家・矢崎弾は、1930年代の高見順の作品について、ほろびを自認せざるをえない、名残惜しげなる自己執心のなげき、と言葉を寄せている。「如何なる星の下に」は、高見の小説のタイトルであり、樗牛の詩の一節である。それは近代的個我の出発と終焉に対応している、と。
 矢崎の言うよう、近代的個我は、本質的には30年代にすでに滅びをむかえていたと思う。しかしそこからは長かった。「名残惜しげなる自己執心のなげき」という言葉は、この世紀にこそ実感として強く感じるのだ。我々は自己の限界というものに至るところでぶつかりながら、なおも自己を捨て切れない。

 我々は自己を起点として良いのだとは思う。近代の最後にいる、我々の生の条件だと思う。しかし何処かで、ついに手放す勇気がいるのだろう。無論それは、先の「超克」の悲劇のよう、国家や社会に回収されるようなものであってはならない。そうではないあり方が見えないから、我々は苦しい。

 30年代から引き続く、ポストモダンの個の解体に、我々は満足したであろうか。亀裂は大量に入ったが、結局のところ、「社会」でとりあえず空隙を埋めた感がある。個我は解体し尽くされてはいない。我々が未だ、こんなにも自身の存在を嘆いているように。つまりまだ近代は続いている。

 この最後の嘆きと苦しみの叫喚の中で、次の世界はあらわれるのだろう。半世紀くらいはかかるかも知れない。実は最近、「小説」もきちんと終わるべきかな、と思っている。個の光芒のすべては小説とともにあった。小説も終わりをむかえている。ここから、小説ではない何かが始まるはずだ。

 小説をやってきた自分がこういうことを本気で考えるのは身震いがするのだが、潜在的には誰もがわかっている気はする。どれほどの実験を試みても、小説は小説であった。自己を解体し無下に扱おうとしても、自己はからみついていた。どれほど自由に書かれても、この世紀に書かれた小説は小説であった。
 歌にせよ叙事詩にせよ、小説とは全く違った文学というものを、我々はいくつも知っている。これから始まる何かは、何と呼ばれるべきものであろうか。泡のような皮相な新しさではなく、深く存在を根底から変えていく、そんな文学がもうすぐ見えてくるのであろうか。陣痛の五十年。百年。

(2015.4.19)

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