大衆と戦う

 時代は悪い。が、学者が個人として時代に相対しているかどうか。大衆性と真の意味で手を切っているかどうか。「学者」だから「大衆」ではないとは決して言えない。今や大衆はつねに己の内にある。大衆はどの個人でもない。どの人間でもないのに、我々を逼塞させる。この大衆と本気で戦えるかどうか。

 大衆性をまるで退けられない、それが現在の日本の知識人の弱さだと思う。ゲーテがここまで書くよう、大衆性を受け入れるかどうかは限りなく一かゼロかの問題であって、間はないと言ってもよい。一度わずかでも許すとあっという間に腐食を引き起こす。仮初めの馴れ合いで済むものでは決してない。

 私は沢山の人の前で教壇に立つが、「大衆への教育」を一度もしたと思っていない。ずっと個人への教育であったし、これからもそうだろう。大衆相手に学問しろ、芸術しろと言わんばかりの昨今だが、どうして誰でもない大衆を相手に話したり書いたりしなければならないのだろう。

 無名の人と大衆は全く違う。知識人は、無名の人を愛し、大衆を退けなければならない。まずは己から。私は本当の意味で知識人が成立することが、今、どうにも必要だと思っている。目に見える「権力者」を批判する前に、知識人の弱さ、学問の弱さ、芸術の弱さ、自分たちに巣くう弱さを見る必要がある。

(2015.3.3)

This entry was posted in Essay. Bookmark the permalink.