最近流行の作品をみると、「適当さ」「不条理さ」「何となく」をわざと強調するのがリアリティだと言うようで、至極疑問。現実はもともと混沌としている。 まず混沌の中から、「出来事」を理解する目が、芸術家の最初の条件である。それが成熟する前に「反出来事」的なことに向かってはいけない。
またその「適当さ」の陰に「自分が何もしないこと」を肯定してくれという主張が見える。見せてない様に見せかけて見せるやり方で。それは最も自意識的なやり方だ。現実を単純化した「合理性」よりはましなのだと言うのだろうが、どちらも水準としては変わらない。
一方にデフォルメされた幼稚な現実解釈と、一方に書き手がなすべき論理把握を最初から放棄した単なる現状追認。そこに沁み渡る肥大化した自意識。芸術の傾向としては、不健康な状況だと思う。その不健康さは社会の閉塞がもたらすのだ……というのは疑問がある。相当な共犯関係がありはしないか。
まともに考えればわかる。自分の人生が本当に「適当でいい」と思っている人はいない。「適当でいい」とあえて言うことで守られる自意識はあるだろうが。「適当さ」を現代人の象徴のように書く人は、むしろ人間をちゃんと見ていないということに思い至らなければならない。
みんな間違えたくはないし、みんな必死の思いで正答をさがしている。人一人の自我の中では、生はつねに切迫した選択の連続である。
「何もしない、つまらない人」を現代人の必然として描こうという人は、むしろ周囲の人間を馬鹿にしてはいないか。本当に出会う人間たちは「何となく」「適当に」「何もせず」生きているだろうか?
そういう不自然に感覚的な人間たちは、私は現代の作品の中でしか会ったことがない。その像は自意識の肥大化した人間を抱える社会が、自己愛的に期待する「リアリティ」であって、少しもリアルではない。
おまけに「もちろんこのリアリティはフィクションだよ。わかってるよ」とさえ言う準備ができていて、さらに苛々する。これでは芸術も低く見られるわけだ。知的にやる、ということはそうしたメタに立って陰湿に見下ろすということではない。文学が読まれなくなるのも当然だ、そこに「本当のこと」は書かれていないのだから。「つまらない人」と見なされた自分の毎日の方がよっぽど真剣なのだから。
人間の真の意味での複雑さというのは、アキレウスの戦いのようなものを言うのである。強く簡明な必然的行動、しかし個の存在としては実に不合理な、宿命へ の突進。そこに私たちは人間というものに貫かれているものを見、いつの時代も変わらぬ人間の生のリアリティを感じるのである。
(2013.11.2)