少数者として戦う

 文学者の敵というのは、つねに多数者である。文学者はつねに少数者として戦わねばならない。そこを自覚できるかどうかが重要である。文学者は多数者に参入してはならない。多数者に対し、多数者として戦ってはならない。文学の力とはそういうところにはないのだ。学問の力も同様である。

 私たちが直面しているのは、少数の人間の独裁ではなくて、多数者の無自覚な欲望である。ゲーテが言う、「きわめて暴力的にして抗いがたい、大衆全体による独裁」である。経済は多数者のものであり、政治も多数者のものである。それと真の意味で戦いたいならば、決して数で競ってはならない。

 高見順は、平和への思いは、ひとり作品で表現するとした。文芸家協会が「平和宣言を決議する」ことに反対をした。大正期のアナーキズムに育まれた精神は、単独の力を強く守ろうとした。我々が本当に必要なのは、その意志ではないのか。

 ついに多くの人間の支持を得られなくても、自分は戦い抜けるのかどうか。共同というのは人間にはつねに魔術的な魅力がある。多数者との連帯は心強い。しかし相手もまた多数者であったら? 気がつけば戦いは、あるいは「大義」は、数の大小になっていく。そういうことでは決してあるまい。

 アナーキズム性とは酷薄な道で、単なる無秩序な自由の謳歌なわけがなく、並の人間にはできないものだと考える必要がある。一人でも真理は真理として守らなければならない。芸術家はそれができるから芸術家なのである。学者もまた同様である。

 真理がつねに多数者との共同で作りあげることができるなら、芸術家も学者も非常に安寧を得るであろう。人間の本性としてはそうあってほしいと欲望するものだ。だが多数者が作りあげた「真理」が、どうしても真理と違うと感じられたら? そこで多数者の主張に折れるなら、彼は芸術家でも学者でもない。

 昨今、学者の「共同」が強く求められる。交流し合い、協力し合うことで大きく進む研究はあるだろう。しかしあえて言えば、学者にとって本来大切なのは、「共同する力」よりも「袂を分かつ力」である。学問には真理のために、決然と「仲間」と袂を分かたねばならない時がある。その覚悟があるかどうか。我々は何よりも真理が衆愚的になることを恐れねばならないのである。

(2015.7.18)

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