高見順没後五十年

 東京・駒場の日本近代文学館では、高見順没後五十年展が開催されている。日本近代文学館は高見順のリードで設立されたものだ。高見の没年に開館した日本近代文学館も半世紀、現在、我々が近代文学研究を自然にできるのは、高見順の意志がとても大きい。

 高見順がなぜ近代文学館を作ったのか? ということについては、私たちは真摯に考える必要がある。当時高見には、「文学の仕事に飽き足らず、社会的名誉が欲しいのか」という類いの批判も向けられた。もちろん、高見はそんなものに関心はなかった。むしろ文士としての使命感だった。

 高見は歴史意識の高い作家である(だからこそ自我を守ることができた)。高見は、日本の近代文学が、日本の歴史において、極めて大きな意味を持つということをよく理解していた。近代文学者の精神に、極めて大きな達成があったことをよく理解していた。その達成を後世の人間のために遺そうとした。
 1960年代の高見には、ある種の危機意識もあったと思う。あの精神の到達点が、やがて理解できなくなるのでは、という危機意識だ。あの苛烈な文学者の戦いの意味が、やがてわからなくなる時代が来る、そういう予感があったようにも思える。思い出せるところが、どうしても必要だと感じたのだろう。

 現在の我々は、ある意味安易に文化財と言い、資料保存と言う。けれど高見の感じている切迫感はそうした文化事業の感覚とは全く違う。もっともっと鋭く、文学とは何か、を歴史的に問いかける意志なのだ。それは純文学を守ろうとした高見の姿勢と一つである。五十年、我々は何を受け取り、何を忘れたか。
 あの頃、文学者は「社会事業」を嫌った。文学者は官や財界と何かをやるのをひどく嫌がったし、社会的肩書きや大衆的人気などを特に嫌った。しかし特に嫌うような文学者たちが、高見順がやるなら、と進んで協力した。高見は最後まで文士だと理解されていた。

 古風な文士気質というのは、別に破産的な生活をするとか、そういうことでは全くなくて、決然と文学のためにすべきことをする、ということだ。どんな立場でも仕事でもかまわない。ただ、自分の文学への意志に従うということだ。生活は乱れようが何でもいいが、文学ができていなければ間違いなのである。

(2015.11.26)

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