文学と解釈

 私は基本的に解釈学に批判的で、こと文学の場では解釈学をできる限り退けたいと思っている。解釈学の可能性、ということはわからなくはない。けれどその論理が最後のところで具現化するとき、ひどく違和感をおぼえるものになる。俗物の詭弁として「解釈」が盾にされる場面に我々はよく出会うであろう。本人さえ信じていないが、字面だけの無理読みで発生する「解釈」……。誰一人信じていないのに、薄ら寒く一人歩きする「解釈」……。

 解釈学は、そんな俗物の詭弁のための学問なわけがない、と心ある人は主張する。もちろん私もそう思う。しかしそのある種の具現化の可能性はつねに恐れておいてよい。解釈学の論理を是とするなら、俗物の詭弁も、あるいは解釈改憲も責任を負わねばならないということだ。

「われわれの言おうとする事が、例え何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。」

 川端が引くこのフローベールの言葉を、私はよく思い出す。一つの意志と一つの言葉。二十世紀後半の知が、ある意味総力を挙げて否定しようとした「固有性」、モダンの中心。しかし、フローベールの言葉は、そんなにも「意味の複数性」の下に否定されるべきものであろうか。

 近代への批判は私にも濃厚にあるけれど、ある種の「解釈の複数性」でそれを超えるのが良いとはどうも思えなかった。少なくとも、フローベールも、川端も、自分の言葉から逃げることはないし、誤読されれば明確に抗議をするだろう。

 彼らが19世紀的であると言う前に、作家は本質的には「自由な解釈」をされるのを喜ばない。結局のところ、現代のものを書く我々の実感としてもそうだろう。(自分で何を書いているか全くわかっていない人間は、喜ぶかも知れないが。)

 そういう実感は正直に大切にした方がいいと思うのである。どれほど「個」への批判を鋭くしていても、誤読が起これば、我々は怒るし、我々はやはり文章に作者の自分の名をつけたがる。自己の解体を主張する文章に、彼の名がついているように。

 もちろん、作者自身が明確には気がついていない優れた点を見出す「解釈」や、あるいは折口などが言うよう、かつてには育ち得なかった古典の内の精神を、現代の文脈で蘇生させる、といったあり方はある。それらは解釈とは言えるかも知れないが、作者自身の内に胚胎していたものを伸ばすという意味であって、誤読まで受容せよ、という「自由さ」では決してない。

 文学研究では長く、テクスト論の時代を続けているわけだが、神の如き「作者」を否定せよ、といってテクストを独立させるのもすごく私には違和感があって、「作者が何を考えていたか」を少しも想定せずに文章を扱うというのは、逆にまさしく作者の神格化ではないかと思うのである。

 実際「神」のような実力者は多いけれど、それでもやはり彼は人間であり、その事実に我々は感銘を受ける。あれほどの作品を、一人の人間が、生きて、書いた、ということが、我々自身の可能性を示すものとして、重要ではないのか。

 もちろん作家生活の楽屋裏のようなものを捜してまわっても、作者には出会えないし、出会わねばならないのは、その作家の明確な意志であるから、単純な実証主義的作家研究ではよくない。けれど自分と言葉とを全力で一対一に結びつけようとする、作家の意志を、そうそう私たちは否定すべきではない。突き詰めて考えれば、そういう人の言葉に、私たちは動かされてきたのではなかったのか。

 危機の時には、玉虫色の発言をする人間を、私たちは信用しない。どうとでも取れる言葉をわざとする人間を、私たちは信じることはできない。その人の生き方を見て、その人の言葉の決意を感じて、ただ一つのその人の言葉を信じるのである。文学はそういうところにある。

(2014.10.6)

This entry was posted in Essay. Bookmark the permalink.