経済界の外から

 いま、この国では経済界が発狂したように全てを引きずりまわしている。心ある経済人もいるのではあろう、しかし外からはかき消えて見えない。忘れてはならないが、経済界の外はある。学問も教育も芸術も外にある。決して中ではない。

 学問も教育も芸術も、後生に何かを託している。今現在の生の充実の果てに、来るべき同じ志の人間を待っている。だから子どもの幸福を願う。

 なぜ子どもは学校を出て直ちに、上の世代の失策で破綻した社会の労働力にならねばならないか。「大人」として働かされながら、子どもを生み育てられないほど低所得に苦しまねばならないか。

 どれほど覆い隠そうとしても、いま、子どもは現在の幸せも、未来の幸せもすべて失われている。これはどうにもならないくらい真実である。
 ただただ悲しいことである。なのにこの真実に悲しむ大人は少ない。子どもが事故にあったと聞けば、大人は悲しむ。なのに、このわかりきった真実に悲しむ大人は少ない。

 彼らは言う、困難な時代だからこそ、勝ち抜ける社会人になれ、と。見るがいい、彼らは社会を強要しながら、社会全体の幸福など考えていない。これほどあからさまな矛盾に彼らは気がつかない。

「食」を人質とすれば、何を言ってもよいと思っているのであろうか。何をやってもよいと思っているのであろうか。おそらく彼らは悪意など何もない。ただ見ないだけだ。マルクス主義の季節が終わって、最悪の経済だけが残った、と言われても致し方ない。

 経済では人間は決して幸せになれない、これは人文学者の信念である。しかし経済界の側も、「人間を幸せにする」という大義を平然と捨ててはならない。まして依存するものが社会であれば、社会全体の幸福を本気で考えてもらわねば、信念も何もない。

 経済的に勝ち抜け、ということばかり聞かれるが、本気で社会を幸せにしたい、という言葉はほとんど聞かれない。倫理的に勝つ、という非凡な能力を、いまの人間は忘れてしまったのであろうか。

(2014.4.23)

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