社会を退ける

 現代文学は、国家を退け、歴史を退け、個人を退け、物語を退けた。しかし一つだけ全く退けなかったものがある。社会である。

 全体主義を仇敵とし、マルクスを幻影に送りこみ、個我を嗤い、完成を放棄し、自分も相手も傷だらけにしながら、社会だけは驚くほど無傷で保全されている。誰も社会を否定しない。目標もなく理想もなく、ただ存在する社会。誰も主体的に変革することのできない社会。それが文学者の肯定するべきものか。

 国家権力とは戦ってみせるポーズは知識人にはどうやらまだ残っている。しかし社会と戦おうとはしない。なぜ国家を否定して社会は否定しないか。この敵らしい姿をしていないものの方が文学者にとっては戦うべき相手のはずである。

 人は社会なしには生きていけない、人はは一人では生きていけない、要はそういうことを言って、あっさりと社会への帰順をすすめる。人間が一人では生きていけないのは当たり前のことだ。誰でも言える分かり切った前提であって、知識人の口から聞くようなものではない。

 その前提の上でどう戦うか、が我々の生のはずである。私はヘーゲル的な歴史については、最終的には同意しないが、現今の無批判な社会の肯定よりはよほど良いと思う。個を超えたものを描くのなら、せめてどうか歴史と言ってくれ、社会ではあまりに貧しい。

 現代の社会には誰がいるか? 民衆がいる? 健気な庶民がいる? いやそこには人間は誰もいない。大量消費の経済があるだけだ。社会をそのまま肯定すれば、大量消費の経済だけを肯定することになる。人間が権力さえもてない経済。

 純文学の作品なのにこれだけ多く売れた! と吹聴される。惨めなことである。純文学が部数の勝負にのったら、最初から存在意義など無くなる。作家は社会を退ける理論をしっかりと内に持たねばならぬ。いつまで「社会に食わせてもらう」つもりなのだろう。今の社会に作家を食わせる余裕など元より無い。

 純文学の作家が食べていけた、奇跡的な時代がかつてあった。それは作家が社会と上手くやったのではなく、作家が本気で社会に戦いを挑んでだからである。その姿勢が社会の内の多くの人間を人間にしたのである。経済ではなく、人間が人間を読んだのである。我々が欲しいのはそのあり方のはずだ。

(2015.7.6)

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