生活者と文学

 高見順は、芸術とは自分で自分の主になることだ、という言い方をする。自分は何者にも仕えない、それは同時にすべてを自分で引き受けるということである。主はすべての責任者である。誰のせいにもできない。その孤高の自我が芸術の自我である。人文学の自我である。真から自立して生きるということだ。

 自分で本当に自分を引き受けるということ、かえりみればそれはひどく峻厳な道である。しかし私はその峻厳な生き方をしている人たちに沢山出会う。自立して生きている人というのは驚くほど沢山いるのだ。自分の人生を自分で引き受けて、自分を大事にし、他人を大事にし、ちゃんと歩んでいる。

 こういう実感というのは、教員をすることで自然と深まるようになった。芸術や学問ということを殊更に言わない、沢山の人生がある。芸術を願う人間からは、どんなにかそれは沈潜した生に見えるだろう。だがその意識こそ「芸術」志望の醜い傲慢である。一人の人間が一人で生きていく、その静かな高潔さ。

 沢山の他者の人生に触れるにつれ、逆に芸術や学問を言う人間の、自分の生への覚悟の低さが気になることも多くなってきた。これは自戒をこめてでもある。高見順が言うよう、本来、芸術や学問に携わる人間は、最も厳しく自分で自分を引き受けなければならないのだ。それが、多くの人生に負けている。

 芸術と実生活、という文学論争がある。文学者は、あの苦しい「実生活」を持たねばならないのか否か、という論争だ。これは文学者には「文学的生活 」があって、それが真の生活である、という決着で正しいと思う。しかしだからといって、文学者が実生活を侮ることは決して許されない。
 一人の人間が食べていくということは、本当に大変なことである。明けても暮れても食べ続けて生きていくのだ。そういう生の根源を軽く見る文学者は真の文学者ではない。武者小路はそこに誰よりも純粋に向き合ったから「新しい村」をやるのである。志賀含め、白樺派は生活への意識が恐ろしく高いのだ。

 高見順は「いやな感じ」において、最高に文学的存在と言えるアナーキストを描く。その彼が自己の生の絶頂の瞬間に呼びかけるのは、「平凡な生活者」である。静かに、ひたむきに、自分で自分の人生を生きている生活者。それは同じ頂点なのである。芸術や学問を求める人間は決して間違えてはならない。

 自分で自分を引き受けている人間、他人に依存せず、他人の人生を当たり前のように大切にしながら、自分の人生をきちんと整えて生きていく人間、そうした人間を心から敬慕する。でもそれは言わば「大人」ということだ。教員は「大人」だが、まだ自分は足りない。けれどとにかく「大人」として生きる。

(2015.12.9)

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