批判力のある「笑い」か

「パロディ」やら「冗談」やら「言葉遊び」やらを軽薄に賞賛しているうちに、現実の恐ろしい逆襲にあうことになる。その文学理論ではただちに霧散することになるだろう。「現実に接触できない」などと言うのは惚けている証拠だ。

 かつての「サブカルチャー」の「遊び」には最低限の風刺意識があったはずだが。現在では政治とは関係の無い「遊び」と見なされて盛り上がる。責任も矜持も無い。そうした「遊び」が知らず最悪の政治に加担することがあり得るのだ。
「笑い」があってもいい。「真面目な顔をするのが恥ずかしい」という自意識はわかる。しかし何事も時と場合だ。今は間違いなく厳粛にならなければいけない時代である。「笑い」が批判力を持てるだけの愚直な真面目さはとうに失われている。はき違えてはならない。

 これから起こる子どもたちの不幸を知りながら、へらへら笑っている大人となっていないか。ひどい社会条件を作っておいて、その全ての辻褄を子どもに負わせ るようなことを平気で選択する。俺は真面目ぶらない、これは「笑い」であり「遊び」だと。いい加減そうした幼さを脱却しなければならない。

(2013.4.28)

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