成熟と文学

 漫画は子どもも大人も理解できる。しかし文学はある年齢以下の子どもには絶対に理解できない。漫画の良さは子どもも大人もわかる。しかし文学の良さがわかるまでには、子どもは相当の成長をせねばならない。この違いは重要である。

 漫画に大人が見るべきものがない、というつもりは全くない。しかし「大人にしか理解できないもの」と決して同じではない。今となっては風前の灯火の「大人にしか理解できないもの」という線を、子どものためにも守りたいのである。

 つまり「大人になって読むもの」が無くなってしまうわけであるから。成長の目標が一つ失われてしまうのである。

「成熟」という言葉はそれこそ戦後消費されてしまって、あまり好きではないのだが、やはり人間的成熟は生の目標として大切である。「子どものままでいろ」という目に見えない社会のかけ声の中で、子どもはそれでも成長したいと必死でもがいているように感じる。

 その観点から文学を読むと、どんなに優れた作家であっても、二十代の作品は二十代の作品である。どんなに優れた作品であっても、成熟途上の二十代の顔がある。

 やはり人間的成熟を遂げた四十代、五十代の作品が私たちの仕事の目標として、幸福な地点へと導く。(六十代以降はまた別種の優れた世界が広がるわけだが)そのためにも良い二十代、三十代を送らねばならない。

 研究者が曲がりなりにも教育者であり、知識人だと言うのなら(趣味人だと言うなら好きにしたらいいが)、三十代、十分不快な社会の片棒を担いでいる存在として、事態の打開に挑まねばならないだろう。三十代の人間の責任はもう大きい。沢山の子どもが生まれ、控えている。

(2012.7.27)

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