全部コンテクストだ、という議論は本当に多い。断ち切る努力は何処へいったのか。「私の言葉はコンテクストが喋らせたものです、私が喋ったものはまたコンテクストに入っていくのです。」全く面白くない。責任を取るも取らないもコンテクスト次第ということか。では、何で自分の名で仕事をする?
「コンテクストが不意に裂ける偶然の瞬間を待て」ということが結局創作家へのエールというわけだ。それなら相も変わらない「霊感」で事足りる。スタニスラフスキーは、その「霊感」をできる限り引きつける土壌を作れるよう懸命に理論化したのだが。俳優は必ず舞台でそこに到達しなければならないから。
物語には良い物語と悪い物語がある。我々は一緒くたに物語と言って片付ければいいのではなく、良い物語を書かねばならないのである。良い物語とは何か? どうすれば良い物語が書けるのか? 小説家の願いはそこにしかない。物語の分析は散々なされても、この問いに答えるのは随分昔の理論家ばかりだ。
「物語」はとっくに批判し尽くされたか? 「物語」は否定されるべきものか? いや物語は絶対に捨てられるべきものではない。出来事が生まれるということ、出来事がつらなるということ、しかもそこに「私」がかかわるということ、凄絶な面白さだ。物語と「書く私」が不可分となる、あの歓喜。
(2015.7.29)