「音だけがすべて」とか、「舞だけがすべて」とかいうように、演奏家やダンサーの、身体が導く境地にあこがれて、文学者も「自動書記」の如く書きたい、と思いがちである。自分の思考よりも先に身体が動くように、自分の思考よりも先に言葉が歩くように……。
こういう憧れは一概に否定できない。文学者は誰だって、「考えたこと」を「言葉に写す」より、ただちに言葉と一体化したいものである。白秋のめざした「芸術の円光」とはそういう世界だ。
しかし文学の場合、こうした憧れにはかなり大きな危うさがあって、私たちは、自己の言語から思考を取り払うことは、そんなに簡単にはできない。自己はそうそう消えてくれるものではない。
一つのやり方として、言葉を全部他人のものとしてあずけてしまう発想がある。自分が書いたものは自分が思ったことではない、社会に瀰漫する言葉が自分を喋らせただけ……。だがこれはひるがえってみれば、虚しさを確認するだけのようである。
もう一つには、自己の思考をあえて書かないやり方。どうやっても内面の思考にかかわる場面でも、あえて立ち入らない。これはよく使われているかも知れない。でもそれは、ダンスと同じように、「言葉だけがある」という境地なのか疑問である。何か歪みがある。
小説では、意識的に自己のあるいは登場人物の思考を書かない、という作家のエッセイを読んだ時、そこに自然に、ふんだんにあらわれている彼の思考がとても力強くて良いと思った。なぜ小説であえて隠したのか残念に思った。すべて出した彼の思考の方が、よっぽど深い響きをたたえているのだった。
彼やその周辺の批評家たちが、思考を出さない方が高度だ、と考えているのであれば、実にもったいないことである。まして自分では隠しているという自覚を持ち続けているのであれば、言葉との一体化とは、随分隔たっている。
「我知らず」という境地は、自分が自覚していること、思考していること全部書いてしまってから、初めて意味がある。人間の思考を全部正直に書いて、なおかつ生じた「自分でもわからない」という経験が凄味を持つのである。志賀直哉はその名手であった。
すべてが明らかなのに、どうしてもわからない、これが文学の地点であろう。最初から意図的に謎を作るのは結局謎ではない。謎解きを喜ぶ批評家たちへの媚びがあるのかも知れないが。
批評家への謎を豊富に提供するのが小説家の仕事ではない。言葉との一体化が小説家の仕事である。自分自身がつきつめて理解した上で、初めて不可思議な言語との一体化の境地はあらわれるのである。
(2014.10.9)