強い芸術、強い学問

 今の時代、芸術や学問が強いかと言えば、強くない。社会によって蹂躙されているという意味ではない。むしろ温室の中で育てられた感がある。芸術や学問は内側から弱い。19世紀から20世紀の世紀転換期をみていると、特にそう思う。我々からすると芸術と学問が異常な強さを誇っている時代。憧れる。

 社会がどう学問と芸術を扱おうと、問題なのは内なる弱さの方で、何でここまで弱いのかは我々は深刻に悩まなければならない。食い扶持の確保や権力者の顔色をうかがう苦悩が、今や学問と芸術の苦悩の中心になっている。だがそれは別の問題だ。強い学問とは何か、芸術とは何か、それを悩まねばならない。

 芸術と学問が、次の時代をきりひらいた。そういうことを我々は真面目に信じなければならない。明治維新は、貧しいが、極めて優れた若い知識人たちが精神の変革によって主導した。我々は彼らよりよほど易々と知識を得られるが、我々は彼らのような力を持つことができない。我々は何をしているのか。

 人間には戦いたいという欲望もある。命がけでやってみたいという欲望もある。最高の意志の表現でもあるから。現代の我々にもあるはずなのだ。ただ一人でも、一つの意志に賭けるということを。それを引き出すのが強い学問であり芸術である。

 我々には与えられた主体なんてものはなく、冷静に見ればほとんど見えないふよふよした何かである。それを内なる意志で収斂させて、目に見える明るい流れにするのである。だから文学も歴史も意志に殉じた人間を愛する。我々もそろそろ迷いの淵から抜けねばならぬ。各々の強い意志を。

(2015.6.18)

This entry was posted in Essay. Bookmark the permalink.