リアリティとオリジナリティは、芸術においては一致する。オリジナルなものはリアルであり、リアルなものはオリジナルなのである。不思議な話にも思えるが、文学の場合特にわかりやすい。言語は直接経験性を奪いやすいから。
海を見なくても、彼は「青い海」と言える。そこに直接性はない。彼のリアリティも、オリジナリティもない。皆が言える言葉である。
宮沢賢治の詩は非凡なまでにオリジナルであり、そして東北の山野を歩いた彼のリアリティに裏打ちされている。その言葉がどれほど「社会的に、共有された言葉」ではなくても、私たちは彼の経験のリアリティを強く感じることができる。オリジナルな経験にこそ、リアリティは宿る。
草野心平は、一つも同じ雲を描かなかった、と宮沢賢治に驚嘆している。目の前をゆく、一つ一つ、オリジナルな、リアルな雲。文学表現とはそういうことだ。
私たちはいくらでも、自分で考えず感じず言葉を喋ることができる。言葉には金貨も銅貨もある。だからこそ、金貨の言葉を選びなさい、とゲーテは繰り返し説く。
「社会的に共有された観念」をリアリティとしてはならない。現在ではそうした観念への「批判」さえ、一つの共有された観念となっていることが多く、非常に 面倒な事態になっている。しかし突破する方法は何にせよ同じだろう。もう一度、小林秀雄にならって、自己の顔に向かえばいい。
「社会的に共有された観念」に基づく「型」に則ったコミュニケーションは大変楽である。だがそこで終わってはいけない。「型」の機能しない時は人生におい て必ず来る。その時、何の言葉を使っていくのか、それを考えるのがコミュニケーションということだ。つまりは文学である。
ただ「他者はわからない」「言葉は真実を射止めない」とする現代の思潮と、他方の「コミュニケーション」の礼賛は、本来全く逆の方向性であり、非常にちぐはぐな印象をおぼえる。言葉は信じないべきか? 信じるべきか? 子供が混乱しても仕方ない。言語の環境は実に良くない。
「本当ではないけれど、お互いにそれなりに耳障りのいい言葉」を習得するのが、コミュニケーションの目標となってしまったら、淋しいわけである。
(2013.1.29)