虚構の意味

 最近大きな誤解があるようだが、「虚構」とは自由に放恣な空想を繰り広げるということではない。虚構とは自律と完成ということと不可分のものである。

 小説においてなぜ虚構が採用されるか。それは出来事の「始まり」と「終わり」をつけるためにある。本来現実の出来事はつねに未完成に連綿と続いていくものであり、「首」も「尾」もない。

 それを出来事として完成させるのが、叙事の芸術、小説である。その意味で必ず小説は現実とは異なる。現実にはない完成を与えるために、虚構が用いられるのである。

 そして大切なことだが、小説が目指す完成とは決して、目の前の現実に存在しないわけではない。目の前の現実に未成熟ながら胚胎しているものを取り出して、言語の中で完成させた出来事にするのが小説の仕事である。

 その意味で虚構とは、全く自由なものではない。小説が自律した完成性をそなえるためには、恐ろしいほど厳格な現実との関係性、そして内的な体系性が存在する。

 この厳格さを理解せず虚構を礼賛するのは非常に良くない。そうした安易な「虚構」は虚構の重要な柱である「構造」がぐらつき、中途半端に現実に依存し、未完成に流れ、甚だ無責任なものになる。

 自由な空想というものは、大したものではない。そういう発想は、大概何か他の価値規範からの解放だけを言っている。批判と解体だけがあって、新しい生成の完成というものがない。あたかも自由は抑圧と抱き合わせであったように。

「自由な空想」を言うものほど、ほぼすべて、既成概念からの解放という、すこぶるありふれたステレオタイプの表現を無自覚にしている。歴史的に見て、エロ・グロや、卑俗さ、無軌道さ、無意味さを「自由」と謳うパターンの何と多いことか。

 大きな物語があまりにも世界を席巻していた。完成が求められすぎた。二十世紀は確かにそうした時代だった。しかしだからといって物語を捨てていいということではない。人々は物語を読むのをやめない。人間は物語を要求するのである。

「芸術家」の側が物語を否定し続けるので、安い物語ばかりがあふれかえる。物語が否定された時代は、人間の歴史においてひどくわずかな時間しかない。我々は再び、物語に正面から向き合うべきではないのか。私は今こそ、優れた物語が必要なのだと思うのである。

「完成された物語」という概念を頭から否定する前に、一度自らが物語を完成させてみるといい。どれほど難しいことか。スタニスラフスキーは、昨日の自分に起こったことを分けてみせよ、と問う。果たして「いくつ」の出来事があったのか。いつが始まりで終わりだったのか。
 昨日のことを語るのでさえ、私たちは大変な困難を味わう。その難しさを知る人間の方がよほど優れているのだ。

 出来事の完成。作家は終えることをめざして筆を執る。最後の一文を書くことが、つねに作家の願いである。流れゆく終わりの無い世界の中で、美しい完成を目指すのが作家なのである。その思いが尊重される社会であってほしい。

(2014.1.10)

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