なぜ文学を書くのか

 さて、戦後七十年を経た現在、「純文学」も人文学系の学問も日に日に窮迫していく観がある。文壇や学会の「衰退」現象のことではない。(それらは別に衰退はしていないかも知れない。)純文学や人 文学自体がどんどん弱くなってきていることは、自然、どの人間も認めざるを得ない。
社会で堂々と不要論が語られ、多くの人間は別に反感も持たないというのは、放っておけば「消滅」するのも、現実的な段階のようである。にもかかわらず、文学の人間の姿勢は随分生ぬるいものがあるかも知れない。もちろん反対は沢山表明されている、しかしその主張に本当に理論的な強さがあるかどうか。

 時期が時期なので、あらためて、自分なりの文学に対する態度は明確に表明しておきたい。自分の主張に理論的な弱さがないかをただす意味もある。なぜ自分は文学をするのか? なぜ小説を書き、なぜ文学を論じ、なぜ作家を研究するのか? 何のためか? 「好きなだけで意味はない」では決してない。

 自分が文学をするのは、第一義には自己表現のためである。大杉栄や武者小路実篤流に言えば自己の充実と生長のためだ。書くことで自分を高める、生きている実感をつかむと言ってよい。だから正直、他人に「読まれる」こととの期待とは直結しない。自分一人、書いている時が一番幸福である。

 綺麗事のようだが本当で、他人の反応と自分の文学は本質において切れている。自分の行為で他人が喜ぶ、ということへの喜びは自分にはもちろんある。他人を喜ばせたいという欲望はあるし、色々なこともする。しかし文学でそれをしたいとは思わなかった。今後も他人を感動させようとは恐らく思わない。

 人文学とは本来そういうものであろう。一人一人が自分を見つめ、人間を見つめ、精神を拡張していくような仕事である。私にとって小説を書くことと学びはほとんど同義である。自分がどこまで精神を高められるか。各々の個我の生長が人類の生長だと武者小路は言うが、そう言ってもいい。

 だが一方で、私は文学の作品や論文を発表したり、教師として教壇に立っている。ここには他人のため、という性格は確かにある。他人に自己を表明したいのではない。これまた綺麗事のようだが、正直に言えば、他人の精神の拡充のため、人間の生長のためにわずかでも力になりたいという気持ちである。
 他人というか、子どもというのが一番近い。人間の精神はもっと大きくなって欲しいし、文学はもっと高まって欲しい。自分が外に向けて書くものは、そのために有意味だと思われる思考についてである。自分の内的な仕事から得た最良のものをこれからの人には示しておきたい。専門職としての責務だと思う。

 私は過去の文学を研究することが多く、過去の文学ばかり語っているようだが、自分の動機は徹頭徹尾現代の文学の向上にある。現代必要と思われる文学の考えを、過去の人から見出すことが多いだけである。現代の自分の文学を、そしてこれからの文学を高めるために自分の文学の研究はある。

 文学作品をあたかも「素材」として、分析することだけを目的に分析するような研究も見かけるが、私はそうした姿勢は好まない。折口信夫のように、現代文学をすすめるために、かつての文学は研究されるべきである。文学にとって、研究のための研究は本来ありえない。
 研究のための研究、という批判を許すような学問はやはり衰弱の源となるだろう。これは文学研究だけではなく、歴史学や社会学、哲学にも当然ある。学問はすべて、現代、すすむべき思想を示してこそ、意義がある。学者は普通、思想家でなければならない。解説者で終わってはいけない。

 現代の学者の多くが、思想家であることを避ける。「客観的な解説者」であることを学者だと勘違いしている節がある(ジャーナリズムと接近しすぎた弊害だろう)。それは意気地がないということだ。思想は個人的なものに精華がある、思想を言うには賭がある、賭があるから存在意義があるのだ。

 創造と子どもの誕生はよく重ねられる。実際同じものなのだろう。安易な進歩主義はとらないが、すすんでいくということ、高みをめざしていくこと、自分のあとに、誰かがあるということ、その姿勢に立って、最良の思想を示していくのが、文学の、人文学の責務であろう。

(2016.1.13)

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