ジャーナリズムの外の文学

「…職業として小説を書くから、小説家だというのもある。習練によってそれは可能である。しかし、ほんとうは、小説家だから小説を書くのである。だから、 それは一生の仕事であり、更にだから、ながい一生の間で、ある場合、小説を書かないという一時期があっても、その人はあくまで作家なのである。」

「作品の商品化などと言うのは、とうの昔のことで、今は作家そのものの商品化だ。新しい作家が新しい商品として次々にもとめられ、派手に売り出され、こき 使われ、そしてすぐ捨てられる。より新しい商品のほうが売れるからだ。流行品のように、消耗品のように、こうして次々に捨てられて行く。
 ジャーナリズムが新しい作家を追いもとめるのは、新しい文学をもとめているのではない。文学として真に新しい小説をもとめているのではない。目さきだけがちょっと変った、しかし本質的にはすこしも新しくはない、それ故、量産可能の小説をもとめているのである。
 作家という職業の繁栄は、実は文学の貧困を招いているのである。」(高見順「作家の職業家と文学」)

 近現代の文学者には、ジャーナリズムについて、ある程度是認する立場と、かなり厳しく拒絶する立場の二つがあって、後者の作家にとっては、「依頼されてする仕事」はそもそも不名誉な仕事だという意識さえある。「売文」とまで彼らは言う。

 我々は現在、ジャーナリズムの外の文学というものを、全く考えられなくなっている。ずっとジャーナリズムの下位にある。文学は高見順の言葉は1960年代、ジャーナリズムは少しか良心的になったと言えるだろうか? つねに何かの「安い代替物」でしかない「書き手」。学問でさえそうかも知れない。

 大手の消費システムから降りようという動きももちろんある。しかしそうした「アマチュア」を自認する作り手は、逆にあまりに隙の多い作品を乱造しがちであ る。非常にオリジナリティに対する意識の甘さが目立つ。アマチュアリズムとは剽窃を是認せよということなのだろうか。決してそうではないはずだ。

「同人誌」というものは、残念ながら現在は悪く使われていることの方が多いようだ。アマチュアリズムこそ、何より自作に厳しいものを求めるのだ。それが誇りなのである。

 武者小路実篤は、ある年、小説は同人誌である『白樺』にしか書かないと決めている、だから大手新聞小説への連載はできない、と編集者に書き送っている。それぐらい同人誌は大切なものだった。

(2014.5.7)

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