芸術をもって闘う

 ほとんど今の人間が知らない事実だが、「最後の文士」と言われた昭和の作家・高見順は、「静かなデモ」を行なった。作家数人が黙って歩くというもの。

 作家として、決して安易に言葉を使ってはいけない。作家は、最初から最後まで個人であって、決して大衆に紛れてはいけない。作家として賭けるべきは作品である。自分の仕事に甘えのない作家だからこそ、沈黙の歩みに価値が出る。それは孤高の意志表明である。

 我々が闘うやり方は、もっとそれぞれの生に即して考えられねばならない。独自の生こそが独自の言葉を生み、独自の闘いを生む。それぞれの生から遊離した言葉は、闘いは、ついに実を結ぶことがない。

 闘うべきである。しかし闘い方こそ、我々は個々の信条を賭けて全力で追究せねばならない。そして執拗に勝つことを求める。勝たなくとも意味がある、という意識では単なる感傷的なロマン主義である。

 高見順は大衆とも、大衆運動とも、深く関わってきた世代の文学者である。その問題への透徹した見極めを軽んじられるほどの論理は、私たちにはない。

 一方で、若い人の芸術上の、学問上の義憤を、自身が社会的に認められないことへのルサンチマンだと嘲笑する傾向が近年特に強い。そうした理解を向ける人間こそ、自身の社会的栄達のみ重視していて、芸術や学問がどうなろうと関心がないのである。

 芸術も、学問も自己のための仕事である。しかしそれは自己を超える高次のものに向かう自己を大切にするという意味であって、自己の社会的栄達など目的でもなんでもない。自己の社会的栄達が無くても、自己の生きる世界の芸術や文学が豊かであれば、十分幸福なのである。

 ルサンチマンと嘲笑う人間たちは、そうした境地を知らないことを自ら明かしている。芸術と学問を取り巻くこの風潮は、せめてもう少し変わりはしないか。我々は自己に即き、そして自己を超えたもののために本気で憤るのである。

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