高見順は戦後の私小説の閉塞を批判した。「私」以外書けないのでは駄目だと主張した。しかし彼は絶対に私小説の動機を守ろうとした。「私」を手放してはならないと言い続けた。
「私」が「私ならざるもの」になること――それが高見順の小説の理想である。「私」を捨てて「私ならざるもの」を追ってはいけないのである。「私」さえ書けない者が、「私」以外を書いても嘘となる。
作り手としての仕事の願いは、「代わりのない」ことである。どれほどもてはやされていても、実は代わりのある仕事は沢山ある。同じ欲望を時間差で満たして いるだけ、という。今自分がやらなくても、いずれ誰かがやるであろう。今忘れられているが、かつて同じものはあった。これは淋しい事態である。
「代わりのない」こと、オリジナリティということ、これは容易ではない。人生を賭けても、簡単につかめるものではない。だからこそ、それを知って、自分の 生の一回性に賭ける私小説の動機は重要なのである。自分がいるということ、そしてただ一人の自分が死ぬこと、そこに「代わり」はない。
何の文学的「教養」がなくても、その人が全てを賭けて書いた文章は強く心を打つ。「文学者」でなくても、それは文学なのである。私は歴史をやってきたが、 惰性で書かれた大量の文章の中で、名も無き人の文が、ごく一瞬異様な光芒を見せるのに出会うことがあった。私は迷わず文学と呼ぶ。自らの生の一回性を賭けて書かれる文章は、すべて文学なのである。
文学は「真実らしく書くこと」ではない。「真実を書くこと」である。その真実とは何か。役者は演技で涙を流す。しかし本当に悲しい。その悲しさは真実である。文学も同じことである。演技は嘘ではない。「私」ではない人物に、「私」の真実の悲しみが宿る。そこに「私」の一回性が宿る。文学の条件は、「虚構」か「虚構でない」かというところにあるのではなく、「私」が生きているか否かにあるのである。