「…今までとりあげて来た歌々は、強く個性を出し、自分だけの窓を持っていて、じっと物を見つめている。そう言う先人の瞳が目に見えるようである。」(折口信夫)
自己が一つの窓になるということが、芸術の理想のようにも私は思っている。ただ一つの窓として、対象を通す。鏡ではなく、窓。
芸術とは自己を窓とすること、と言いたいのは、自己と対象との関係をよく説明できるからである。
芸術の願いは自己に即くことであり、対象をつかむことである。この二つの願いは一般には矛盾をなしてしまう。しかしこの二つは矛盾無く実現できる。自己が窓となることによって。
暗い部屋に一つだけ窓が開いて、そこから美しい夕空が見えている。人は必ず窓から空を見るだろう。そして夕空を見つめる時、窓の存在を意識することはない。夕空だけを見ている。しかし窓が無ければその空は見えなかったのである。そこにある、ただ一つの窓。
この窓こそが自己である。自己が無ければ夕空を見ることはできない。しかし我々があくまで求めるのは空であって、自己の存在は忘れている。自己は最後の目標とはならないのである。自己の存在は問題とならないほど、対象までまっすぐと続く意志。けれどその窓は必ず唯一の自己なのである。
鏡より窓と言いたいのは、鏡は対象を映すだけであって、対象までつながっていない。そこにあるのは鏡面であって対象ではない。幻影の謂いとされてしまう所以である。しかし窓は、遠くとも対象まで一続きにつながっている。いま届かなくても届くことができるかもしれない。そして対象から風が吹く。
自己でありながら、自己を忘れて対象を見つめるという姿勢が、私は理想のように思える。自己は絶対条件である、しかし自己は目標ではない。対象が目の前に美しい姿を見せるとき、自己の姿を見過ぎることはない。自然に対象に手を伸ばせば良いのである。