人文学の教育

 大学で教鞭をとって四年目、基本的にずっと問いかけるだけの講義をしてきた。私はこう思うが、あなたはどう思うか、でしか授業を結んでいない。

 大学における人文系の学問の目的とは、一定の知識の習得ではもちろんない。人文系の学問は人間の歴史をかさねた思考すべてを扱う。その広大さ深遠さを本気で理解してもらうのが一番大切な目的なのである。小さな入り口をひらく、と言った方がよい。

 あとは各々の人生で、問いの答えを追究してもらいたい。教員としてはむしろ、二、三十年かかって一つの答えが導き出せるような、長い問いかけができるのが理想だと思っている。二、三十年かけて、わかった人は私に教えて欲しい。ずっと待っている。

 毎日沢山の問いかけをはなって、すぐわかって終わってしまった問いも無数にあるだろう。でもその問いには私自身がわからないことが沢山含まれている。わからないことを学生に問うているといってもいい。わからないが、人間の生にとって、大切だと感じることばかりだ。

 学問も芸術も孤独なものだが、教育の場は、共に考える幸せがある。私自身の問いが、ほのかな余韻のように遠く年下の人たちに残っていたら、人文学の教員としてはとても幸せなことなのである。

(2014.4.17)

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言えなければならない

「言葉がない」とか「何も言えない」とか、私たちはつい言ってしまう。それも心からの言葉なのだろう。でもそこで言葉を閉ざして何があるのだろう。

 過酷な経験をした人に、自分ではかける言葉がないと思うのは誠意ではある。経験を共有しない、そしてその後まで支えることのできない人間の言葉など、かえって悪い、私たちはそう考える。しかしそれは放棄でもある。

 自分がどんな人間であれ、何かを言うべき時というのがある。間違えたくないがゆえに、沈黙する。そこに賭はない。敗北はないが、それ以上には何もない。

 私はやはり文学者や知識人が、「言葉がない」と言ってはいけないと思う。自戒をこめてでもある。もう少し言えば、自分に経験がなくても、何かを言えなければいけないと思う。

 芸術というのは、端的に言って、自己の経験以上のことを、自己のものとして経験することである。芸術家は何人もそのためにすべてを賭けている。想像を絶する経験でさえ、何としても経験しなければならない。

 文学とはそういうものである。虚構がどうして人生になるか。彼は「言葉がない」と逃げないから、彼以上の生を生きることができるのである。

 過酷な経験というと、思い出されることがある。アジア太平洋戦争下で、日本の兵士たちが何の本を読みたがったか。それは軍が用意した娯楽小説ではなかった。ゲーテや川端の「雪国」のような純文学であったと言う。

 彼らは彼らの過酷な経験を楽しく紛らわすものは選ばなかった。その過酷な経験に匹敵するものとして、芸術を選んだのである。彼らの経験とはまるで違う、しかしそこには、もう一つの真実の経験があった。私はこの事実を何より重く考える。

(2014.4.8)

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剽窃とオリジナリティ

 剽窃が問題になっている。日本の研究者の一人としては、虚しい気分になる。けれど翻って考えるのは、あからさまな剽窃ではない剽窃についてだ。言葉は一応「自分」の言葉で書いてあるけれど、内容はほぼすべて他人の意見の要約という文章は、実に沢山あって、また結構な評価を受けている。

 知識豊かな人なのだろう、国内外問わず、よく他人の文献を読んでいる。膨大な数のさまざまな麗句を次々に「引用」していく。しかし私たちは結局、そうした引用のからまる茂みを取り払って、取り払って、最後に彼自身が言おうとしていたことを見つけるしかない。そして、一生懸命茂みを刈ってみると、平凡な小石が転がっているだけ、ということがよくある。その石はあんまり月並みなので、その石である必要はなかった。

 引用は確かに最新の書物のものだったった。けれど結論はごくありふれたものだった。最新の書物を読み込んだ甲斐無く、この百年二百年何度繰り返された意見だった。それは一応、自分で見つけた意見ではあったのだろう。しかしどうにも、月並みだった。新しい意見として言うべき価値があるかわからない。

 膨大な他人の言葉の引用と、すでに人々に言い古されていた「自分の意見」と。剽窃云々以前に、今の研究の世界を大きく覆っている閉塞を感じる。真面目に苦悩する研究者はいるが、何も悩まない研究者もいる。歴史なんてものはさておき、わずかな現世の名誉に賭ける「職業研究者」は悩んではいけないのだろう。

 しかし我々は、何を「新しさ」として、「オリジナリティ」として考えているのだろうか。「素材が新しい」「社会が新しい」というのは正直頼りない。自分たちがそんなにも、生きているだけで新しさを体現していると考えるのは非常に自意識過剰で、二十世紀からこの方、私たちはそう新しくなっていない。人間には退行という事実があることを忘れすぎている。

 少しそこに注意を払う人は、「実践」こそがオリジナリティだと言う。これは間違いではない。他ならぬ個人が何か行為するということ、それは確かに何かにつながっている。

「学問」より「芸術」の側は、そうした主張を好む。だが芸術の側に深く身を置いている私は、逆にその実践の主張が、ひどく安易に感じる時が多い。実践する人間の尊さはある。だが、本当の意味で芸術であるためには、実践から導き出される結論こそが、新しく、オリジナルでなければならないのである。簡単に言えば、それまで見たこともない、人間の価値を強く打ち立てて示していなければならない。私は芸術にはそこまで求める。

 よくあるのは、結論は月並みだが、実践したことに意味がある、というもの。結論は流行の哲学者や、社会科学者や、ジャーナリズムが言っていること、それを個人が実践したことに意味がある、というもの。芸術を名のるかぎり、私はこれは認めない。
 他人の理論に従属する実践では、個人の実践とは言えないのである。芸術の実践は、一つの理論として新しく、独立していなければならない。哲学者の理論に対しても、屹立していなければならない。

 とても難しいことである。オリジナリティなんてもの、信じない方が我々には気安い。だが個我という不思議なものが、シュタイナーなどが言うように、人間の進歩の過程で獲得されてきたものだとするのなら、うち捨てるには早いかも知れないし、二十一世紀の現在、まだ誰も本気で個我であることを拒否しているようには見えない。これからも個我を維持していく気があるならば、何としてもオリジナリティという理念を手放すわけにはいかないのだろう。

「コラボレーション」「多声的」「多元的」「他者の声の交錯・交響」……この十年、芸術実践の機会では、よく聞くフレーズである。その実践のすべてが良くないとは言わない。しかしそうして喜々として「他人の声」を使うとき、自分のオリジナリティは何処にあるのか、本気で不安に思ってもらわないと芸術としてはみすぼらしい。「他者の言葉を組み合わせてみせた自分の実践だ」、と居直るならば、場合によっては剽窃の問題とあまり質は変わらない。

「オリジナリティなんてない、だから自分はそれを否定するために」、と言うならば、これは物凄く大変なことで、少なくともこの二百年の人間の生き方すべてを抱えて否定しきらなければならない。あまり「他者の声を使う」ということを軽々しく考えない方がよいだろう。

 剽窃が跋扈する、それがおかしいとは私たちは感じる。しかしその本当の正体は一向に見据えられていないようだ。現在日本に生きる、私たちの精神の内には、どのような病理があるのだろう。

(2014.3.28)

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ただ一つの文体

 若いときは、さまざまな文体が使えることが凄いと思っていた。論文の文体、エッセイの文体、web上の文体、小説の文体、同じ人が書いたと思えないほど、多様な文体を駆使できるのが、格好良いと思っていた。

 今は全く逆で、すべてを同じ一つの文体で書きたいと願っている。小説も論文も同じ文体で書きたい。小説と文体はたしかに世間一般では違う層の文章と見なされる。しかしそれを一つにしたい。
 自分は二つのことをやっている。だが自分は一つであるし、その二つはやはり一つのことである。だから、文体を一つにしたい。

 自己の文体を持った文学者は、何を書いても彼の文体である。ハイフェッツのようなヴァイオリニストは、何を弾いても彼の音である。それがあるべき姿なのだ。名が無くても、文体を見て、音色を聞いて、あの人だと思う、存在というものの成就である。

 多様な文体を駆使する人は世間に沢山いる。論文と小説で全く違う文体を使う人も多いだろう。現在、文筆で生きていこうとすれば、そうした距離感は致し方ないのかもしれない。だが、どちらかを取ればどちらかが嘘になる、そんな乖離をしている場合は不幸である。

 反抗と従順とが、無頼と特権意識とが併存していたら、それは奇妙なことである。併存が可能だということは、両方とも嘘なのかもしれないのだ。洋服を取りかえるように変えられる文体は、自分の体ではないのかもしれない。

 若い時は自分の文体を探して遍歴するのが普通で、変わることは多々あるであろう。けれど、一定の年齢になって、知識人としての立場を得て、矛盾した文体を持っている場合、私は良い印象を抱かない。その人の何を信じていいかわからないからである。

(2014.2.28)

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純文学とアスリート

 オリンピックの時期になると、文学が目指すところがかえって明瞭に見えるようである。私は身体を第一の表現手段にしようとしたことのない人間だが、身体の動きを見るのはとても好きだ。身体を持たない文学にも、本質において同じものがある。

 純文学とは何か、を学生に説明するとき、よくアスリートのようなもの、と言う。彼は観客のために走るのでない、自分自身のために走る。やがて、自身が何処まで行けるか、は、人間が何処まで行けるか、と同義になる。

 だから純文学者は読者のために書くことはない。不特定多数の読者からの評価はおまけの褒賞である。もらったら、それはそれで嬉しい。しかし本質には全く関係がない。純文学者は、同じ高みを目指す存在からもらう評価は重く大きく受けとめる。だがそれ以外は徹底して自己の問題でしかないのである。

 小説においてこの部分を説明すると、なかなか実感をもってもらえない。誰もが沢山の人に読んで欲しい、と思ってしまう。「読者がいない作品」なんて、耐えられないわけだ。しかしここはもっと強くならなければいけない。

 アスリートを見れば、はっとするだろう。観客がいないから走れない選手なんてのは、そもそも資格がない。観客の期待に応えなかったからといって、彼の価値が下がるわけでもない。ましてその競技は、はっきりいって「実業」的には何も生産しない。彼が如何に速く走ったからといって、「食う物」はあらわれない。

 そんな人文学にも似たものを、守ろうと社会が支えるのは良いことである。経済界によって色々粉飾されているが、本質的にアスリートが「パンのためにならない」仕事であることは、誰もが知っている。しかしそこに存在意義を認められるのは、やっぱり優れた人間のあり方なのだ。

 無論現在、アスリートという存在に、経済的な利権がからんでないとはいえない。だが「売れなければ存在意義がない」かの発言が、臆面もなく言われるようになった文学界よりはるかにいい。発行部数がその作品の質を保証するものでは無いことは、誰もが気がついているのに。

 これは文学界だけではない。映画を作るのに資金がいる、資金のためにプロデューサーに援助を願う、資金援助のかわりにプロデューサーは採算を取れる証明を出せという、採算を取るために、すなわちより多くの観客に受けるために、自分が本当にやりたいことは諦める……こういった経緯が「世界的」と謳われる映画監督の口からよく漏れる。

 優れた映画監督にこうした発言をさせて恥じない社会とは何であろう? おそらく彼らはずっと観客に冷えた眼を送っている。そんな観客などいらない、というのが本音だろう。しかし作るために黙っている。その監督を褒めても褒めても、「パン」が出来なくても作れ、という観客はいない。

 私は現在、作り手たちに、アスリートのような敬意が払われないのが悲しい。作り手を支援するはずの、ジャーナリズムの大半は中間搾取団体のようにしかなっていない。
 絶望して筆を折った優れた書き手は恐らく沢山いる。その中に、自分と「同じ高み」を目指していた存在もいたかもしれないのだ。それが残念でならない。

 としても、遠い同志と出会う機会がなくなっているのは残念だが、純文学の原点に帰れば、孤独のうちに書くことが本質であるから、結局、純文学者は書き続けるだけである。それを理解している孤高の文学者たちが無数にいて、日本の文学は黄金時代を迎えた。文化の水準は、そういった原理が深く人々のうちに理解されている時にしか上がらないのだ。

(2014.2.10)

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虚構の意味

 最近大きな誤解があるようだが、「虚構」とは自由に放恣な空想を繰り広げるということではない。虚構とは自律と完成ということと不可分のものである。

 小説においてなぜ虚構が採用されるか。それは出来事の「始まり」と「終わり」をつけるためにある。本来現実の出来事はつねに未完成に連綿と続いていくものであり、「首」も「尾」もない。

 それを出来事として完成させるのが、叙事の芸術、小説である。その意味で必ず小説は現実とは異なる。現実にはない完成を与えるために、虚構が用いられるのである。

 そして大切なことだが、小説が目指す完成とは決して、目の前の現実に存在しないわけではない。目の前の現実に未成熟ながら胚胎しているものを取り出して、言語の中で完成させた出来事にするのが小説の仕事である。

 その意味で虚構とは、全く自由なものではない。小説が自律した完成性をそなえるためには、恐ろしいほど厳格な現実との関係性、そして内的な体系性が存在する。

 この厳格さを理解せず虚構を礼賛するのは非常に良くない。そうした安易な「虚構」は虚構の重要な柱である「構造」がぐらつき、中途半端に現実に依存し、未完成に流れ、甚だ無責任なものになる。

 自由な空想というものは、大したものではない。そういう発想は、大概何か他の価値規範からの解放だけを言っている。批判と解体だけがあって、新しい生成の完成というものがない。あたかも自由は抑圧と抱き合わせであったように。

「自由な空想」を言うものほど、ほぼすべて、既成概念からの解放という、すこぶるありふれたステレオタイプの表現を無自覚にしている。歴史的に見て、エロ・グロや、卑俗さ、無軌道さ、無意味さを「自由」と謳うパターンの何と多いことか。

 大きな物語があまりにも世界を席巻していた。完成が求められすぎた。二十世紀は確かにそうした時代だった。しかしだからといって物語を捨てていいということではない。人々は物語を読むのをやめない。人間は物語を要求するのである。

「芸術家」の側が物語を否定し続けるので、安い物語ばかりがあふれかえる。物語が否定された時代は、人間の歴史においてひどくわずかな時間しかない。我々は再び、物語に正面から向き合うべきではないのか。私は今こそ、優れた物語が必要なのだと思うのである。

「完成された物語」という概念を頭から否定する前に、一度自らが物語を完成させてみるといい。どれほど難しいことか。スタニスラフスキーは、昨日の自分に起こったことを分けてみせよ、と問う。果たして「いくつ」の出来事があったのか。いつが始まりで終わりだったのか。
 昨日のことを語るのでさえ、私たちは大変な困難を味わう。その難しさを知る人間の方がよほど優れているのだ。

 出来事の完成。作家は終えることをめざして筆を執る。最後の一文を書くことが、つねに作家の願いである。流れゆく終わりの無い世界の中で、美しい完成を目指すのが作家なのである。その思いが尊重される社会であってほしい。

(2014.1.10)

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批評の衰弱

 批評界では毎月毎月、未曾有の名批評が発表されているかに聞こえるが、その割にちっとも文学論争が起こらないのはなぜだろう。

 戦前の昭和の文学史を見ると、実に激しい文学論争が繰り広げられている。我々は何を文学とするか。美とするか。どの哲学を取るか。時代とどう向き合うか。そうした問いをめぐって、彼らには論理上の仇敵がちゃんと存在する。

 論争が起こらない。それは批評界にとって致命的な衰弱である。批評家が、お互いに批判をしない。個性と論理をものとする批評家が、そんなに沢山の人間の価値観を受容できるとは到底思えない。

 結局、意識的無意識的に示し合わせてお互いを保全しているということである。ポリフォニックなどと謳って、お互いがお互いを必要なところで否定しない。それは互いの自由でも何でもなく、ある意味無関心ということである。

 もう少し言えば、自分の論理にも大して関心がないのかもしれない。本来自己の論理のために全力で闘うはずが、それほどの固執もない。それは「批評風言説」であって、批評ではない。

「気の利いたこと言って頭良く見られたい」「博学な用語を駆使したい」という自意識だけがあって、自己の哲学が欠如している批評が多すぎる。それを隠すためにお手々つないで馴れ合って……では、あまりにも困る。

 そして今や批評家は文学の中で闘う代わりに、批判対象を求めて外に出て行く。ろくに文学の中で批判ができなかった人間が、文学の外で何が言えるのか、私は疑問である。

(2013.12.12)

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法律と文学者

 法律ができて何かが変わるということはない。法律ができるということは、すでにずっと以前に、深いところで何かが変わっていたということである。法律はそうした変化の最後の析出にすぎない。

 人文学者は法律ができて驚いたりしてはいけないし、批判したいと思うのであれば、その対象は法律そのものであってはならない。

 例えば高見順は警職法改正の際にも、作家として意見を述べている。しかし当時の彼があくまで批判していた対象の中心は、文学のあり方である。そこは決して誤解してはならない。文学者が、人間のあり方を深く定める文学をしっかりと保つのでなければ、文学者の政治への批判など何の意味もない。

 高見にはこんな言葉もある。「私は平和に反対ではない。その私の意見は既に小説や評論で書いてきている。私が反対したのは、文芸家協会がそういう決議をするという点にあった。…主なる反対理由は、決議というものを重視することに秘められた政治主義的な考え方に反対だったのである」

 自分たちがなすべき一番大切なことをせずに、レディメードな批判方法に狂奔してはいないか。高見順は、文学者の誇りをもって、文学者として批判した。文学が根源にあると信じていたからである。

(2013.12.6)

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人文学と経験しない生

 人文系の学問は「役に立たない」と、よく無遠慮に言われるが、人文学者の側も「役に立たないからいいんです」と苦笑して答えがちである。その言い方に腹立ちと矜持をこめているのだが、あまり良いやりとりとは思えない。

 遠回しな表現も時代によって力はが持てない場合がある。今の時代は「役に立つ」と真顔で言うべきだと私は思う。何の役に? 人生の役に。

 人文学は人間のことを考えている。一人の人間が生きて死ぬとはどういうことか考えている。我々はこれから生きていかねばならないが、これからの人生で何が起こるか知らない。まことに恐るべきことである。

 喜びだけではない。無数の悲劇もあるだろう。これから来るべき喜びと悲しみ。私たちはそれを朧気に感じている。感じることで微かに立ち向う用意をする。なぜ感じることができるのか。人文学的な発想があるからである。
 人間はこのような喜びと悲しみを抱くのか。だから、自分はこのような喜びと悲しみを抱くかもしれないのか。それが人文学ということである。

 学問と言わなくてもいいかも知れない。けれどその希求が人間にはどうしても必要であるから、ずっと大切な学問の中心を占めてきた。
 人生に危機の無い人間なんていない。悲劇のおとずれのない人間なんていない。だからこそ私たちには人文学が必要なのである。

 人文学には人間が生きて、死んだ、ということが書いてある。死ぬことだけは知っていても、死を経験していない私たち、どうして人文学が支えにならないと言えるだろうか。

 これは自分の経験だけれども、私が怒り、恐れ、悲しみ、喜ぶとき、いつも文学があった。文学が怒り方を教え、恐れの克服を教え、悲しみの受容を教え、喜びの意味を教えてくれた。
 私自身が経験したことはまことにわずかなものである。しかし文学がはるかに多くの人間の生を教えてくれた。だから私はいま、教壇に立つ勇気を持つことが出来る。自分を支えた文学を信じるのである。

 人文学は観念ではない。そこに人間がいたのだから。人文学をいくらけなしても、人間の危機はその人間にも等しくおとずれる。

 経験しない生を自分の生とするための学問、それを私は人文学と思っているし、また「教養」もそこからしか語れないと感じている。

(2013.11.27)

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妥協のない仕事

 芸術とそうでないものの違いについて、質問された時、「妥協の有る無し」と答えることも多い。芸術は一つも妥協してはならない。妥協があればそれ以外のものになる。これは学問でも同じことだろう。

「妥協」は様々な色合いがある。自意識によって、自己を甘く保全しようとする妥協もあるし、他者の評価を恐れてする妥協もある。社会的立場を掠め取ろうという、全く別の目的のためにする妥協もあるだろう。(それは迎合と呼ぶが。)

 近年の学問の分野での妥協、というか迎合は甚だしいものがあり、真実かどうかを追究するよりも、現行の学術界での「評価」を勝ち取ることを第一の目的になされる研究も多い。一見わからないようで、すぐにわかる。妥協の影は消せるものではない。

 中には居直って、自覚的に学術界での社会的立場を競争的に勝ち取るために、真実の追究も自己の本来的動機もかなぐりすてる者もいる。本人は悲壮な決意なの かもしれないが、それでは単なる俗物である。そういう人間に限って「大学の研究者など偉くないんです」と卑屈に振る舞う。

 それは謙虚なのではなく、その卑屈な振る舞いによって、また別の社会的評価を掠めとろうとしている場合さえあるのだ。私はそういった人間が心から不快である。

 本人が一切妥協なく仕事をしている人間は、自分にも他人にも厳しいし、「偉そう」にも見えるものである。そのことで彼は他人から距離もおかれ、様々な社会 的チャンスにおいて、不利益も被るのであろう。しかし彼は「偉そう」と言われても、許せないものは許せない。本気なのだから。

 俗物をやりたいなら、何も芸術や学問の世界に入ってくることはない。もっと華々しく儲かる世界はいくらでもあるだろう。それとも現行の社会的成功では飽き足らず、先人たちの築き上げた「歴史的権威」まで欲しいのか。

 学問や芸術に敬意が今なお払われているのは、苛烈な先人たちの闘いがあったからである。文字通り命がけの妥協のない闘いであった。歴史を超えて敬意に値する壮絶な闘いであった。それを知らずに俗物的欲望の延長で手を伸ばすなど、傲慢にもほどがある。私は怒りを禁じ得ない。

 人間はその一回切りの一生をかけても、本当に優れた仕事ができるかわからないのである。妥協している暇などどこにもない。まして自分自身で妥協を認めてしまっては、何も進むことができないのだ。

(2013.11.17)

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純文学を守る

「私が『激怒』したのは純文学変質論の根本を私は純文学否定とみたからである。『純文学』と氏はカッコをつけているが、それを一時期のものとする限定は、純文学そのものの否定へと導かれる。そう見た私は純文学をいわゆるシリアス・リテラチュアとして、言いかえると文学から失われてはならないものと考えているのである。」

「純文学への攻撃はやがて娯楽実利を追及する出版資本とそれへの迎合者によって行われた。更に戦争になると、いよいよ露骨な攻撃が権力と結びついて始められた。国家を忘れた純文学は亡国文学だという攻撃である。これは戦争という特殊な状態における特殊な攻撃というのではなく、在野精神と野党意識を守り続けた純文学への連続的な攻撃のひとつと見ねばならぬ。」(高見順)

 これは1960年代の、平野謙の「純文学変質論」に対して書かれた高見順の言葉である。平野は過去の遺物である「純文学」が生き残るためには、中間小説の大衆性のような「アクチュアリティ」が必要だと説いた。それに対して高見は激怒した。

 高見順は純文学を守ろうとした。文壇の権威に閉じこもるために「純文学」という概念はある、現代の人たちは思うだろうか。しかしあえて言っておくと、高見 は「食べるために」沢山の中間小説的な仕事をしている。「大衆受けする作品」を彼は書かねばならなかった。それが彼を何よりも苦しめた。

 彼はそれらの作品で人気もとれた、収入も得た。沢山の人間が彼の作品を読んだ。しかし彼はその間、全く不幸であった。彼がどれほど作家として経済的に安定しても、彼はその仕事を愛せない。「自分のための仕事がしたい」と彼は切実に願う。これは高見だけの話ではないし、文学だけの話ではない。現在、私たちは無数ともいえる創作物を見る機会を得ているのだが、それらを享受するとき、作り手の 苦悩というものをどれほど思いやっているだろうか? 彼らがその作品を書くとき、自身で望まない方向性を強いられているとしたら?

 漫画のジャンルでよく聞くが、「止めたいときに止めさせてもらえない」「売れないからといって、強制的に方向性を変えさせられる」といったことは、作り手 にとっては最も不幸なことであろう。『売れるためには仕方がない」という論理に何の正当性があるであろうか。彼が「作ること」は破壊されている。

 自分は社会の欲望の単なる鏡と化しているだけなのだろうか? 彼らは自問するだろう。どうして異常な成功のあと、筆を折る書き手が多いのか。皆知っているはずだ。しかし知っていながら助けようとはしない。彼がやりたい仕事をさせてやれ、とは誰も言わない。

 私は大衆文化を基本的には支持しない。それは第一に、作り手に対するあまりもむごたらしい構造があるからである。読者と批評家だけが強く、作り手は何の権利も無いに等しい。作り出しているのは彼なのに。彼は何の敬意も払われず、作品が低劣になった責任だけ負わされるのだ。

 作り手を尊敬する構造があって初めて文化は高昇していく。そんな基本的なことが、「実利」の名の下に忘れ去られていく。作り手を滅ぼしているのは誰だろうか? 高見順が言うように、戦争中の「国家による強制」と本質は変わらないのだ。

 高見順が「純文学」の言葉で守ろうとしたのは、一つには作り手に対する敬意である。「純文学だけが守られて……」と思う人もいるかも知れない。違うのであ る。中心において確固として守るものが無ければ、他の創作活動はそうした社会の無責任な欲望を絶対に凌ぎきれないのである。

 純文学は、実利もなければ多数の読者もいない、それでもその存在が、創作ということの根源的な大義を守っているのである。だから純文学が弱まれば、大衆文 学も弱まる。芸術が弱まれば、大衆文化も弱まる。実際の作り手は気がついている。そして、この困難な社会条件の下で沈黙を強いられている。

 私は他人を喜ばせる、他人を楽しませる文化があってよいと思っている。そのなすことの難しさに心から敬意を払う。しかし作り手の純粋な願いを、私たちは もっともっと大切にしなければならないと思うのである。「大衆性」という時、私はそれが出来なくなる危険性を感じる。だから私は支持しないと言う。

(2013.11.15)

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芸術に奉仕する

「さあ、私がいうことを、しっかりと覚えておきたまえ。演劇というものは、これが公開されることや、スペクタクルとしての側面をもつことのために、単に自分の美しさを売物にしたり、出世をしたりすることのみを願う、多くの人々をひきつけるものだ。「彼らは、観客の無知や、その歪んだ趣味や、情実や、策謀や、虚偽の成功や、そのほか、創造的芸術とはなんの関係もない、多くの手段を使う。そういった利用者は、芸術の宥すべからざる敵である。我々は、彼らに対しては、あくまで厳しい手段をとらなければならず、もしも彼らが矯正できないのならば、彼らは舞台から追放されなければならない、そこで、君は、きっぱりと決心しなければならない、君がここへやってきたのは、芸術に奉仕し、そのために犠牲になることか、それとも、君自身の個人的な目的に利用するためか?」(スタニスラフスキー『俳優修業』)

 こうした明快な厳しさが、私は今の時代に欲しいのである。「甘くてよい」理論は沢山ある。自己を芸術の前に厳しく。学問の前に厳しく。しかし実に彼らは充 実した生を送っている感がある。彼らは不特定他数の人間への「サービス」をしない。だが彼らは芸術と、正面から向き合って、対話している。

(2013.11.8)

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不自然な感覚主義

 最近流行の作品をみると、「適当さ」「不条理さ」「何となく」をわざと強調するのがリアリティだと言うようで、至極疑問。現実はもともと混沌としている。 まず混沌の中から、「出来事」を理解する目が、芸術家の最初の条件である。それが成熟する前に「反出来事」的なことに向かってはいけない。

 またその「適当さ」の陰に「自分が何もしないこと」を肯定してくれという主張が見える。見せてない様に見せかけて見せるやり方で。それは最も自意識的なやり方だ。現実を単純化した「合理性」よりはましなのだと言うのだろうが、どちらも水準としては変わらない。

 一方にデフォルメされた幼稚な現実解釈と、一方に書き手がなすべき論理把握を最初から放棄した単なる現状追認。そこに沁み渡る肥大化した自意識。芸術の傾向としては、不健康な状況だと思う。その不健康さは社会の閉塞がもたらすのだ……というのは疑問がある。相当な共犯関係がありはしないか。

 まともに考えればわかる。自分の人生が本当に「適当でいい」と思っている人はいない。「適当でいい」とあえて言うことで守られる自意識はあるだろうが。「適当さ」を現代人の象徴のように書く人は、むしろ人間をちゃんと見ていないということに思い至らなければならない。

 みんな間違えたくはないし、みんな必死の思いで正答をさがしている。人一人の自我の中では、生はつねに切迫した選択の連続である。

「何もしない、つまらない人」を現代人の必然として描こうという人は、むしろ周囲の人間を馬鹿にしてはいないか。本当に出会う人間たちは「何となく」「適当に」「何もせず」生きているだろうか?

 そういう不自然に感覚的な人間たちは、私は現代の作品の中でしか会ったことがない。その像は自意識の肥大化した人間を抱える社会が、自己愛的に期待する「リアリティ」であって、少しもリアルではない。

 おまけに「もちろんこのリアリティはフィクションだよ。わかってるよ」とさえ言う準備ができていて、さらに苛々する。これでは芸術も低く見られるわけだ。知的にやる、ということはそうしたメタに立って陰湿に見下ろすということではない。文学が読まれなくなるのも当然だ、そこに「本当のこと」は書かれていないのだから。「つまらない人」と見なされた自分の毎日の方がよっぽど真剣なのだから。

 人間の真の意味での複雑さというのは、アキレウスの戦いのようなものを言うのである。強く簡明な必然的行動、しかし個の存在としては実に不合理な、宿命へ の突進。そこに私たちは人間というものに貫かれているものを見、いつの時代も変わらぬ人間の生のリアリティを感じるのである。

(2013.11.2)

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自意識を捨てる

 小説の目標は「自意識を捨てる」ことにある。これは単に客観的目線に立つということでは勿論ないし、自己を感覚だけの存在のごとく描くということでもない。自我が感受し、思考していながら、自意識が消え去る、それが理想である。

 自意識は非常に面倒なもので、色々な隠れ蓑をもってすぐに書き手の内側に入り込む。「自分をよく見せたい」「格好よく見せたい」というのはまだ全然良い方で、「こんなことくだらないと知っている」「意味なんかない、とわかってる」というポーズが厄介な自意識の作動である。

 書き手の情感が書かれていないからといって、自意識から「素っ気なく書いた」風の文章と、冷厳に対象を見据える文章は違う。後者には対象を強く求める目線において、自意識が消えているのだ。藤村のように。その対象が自己であっても。

 またあえて思考を書かず、感性のみでわざと書くのも自意識である。子どもならよい。しかし一定の年齢の人間が感性でしか捉えないのは作為的であり、「自分 を感性的人間と呼んでほしい」という自意識である。人間は感受だけでなく、思考し、そして意志を持つ。それを書いてこそ十全な人間描写だ。

 武者小路実篤に、文壇の人間が驚愕したのは、その自意識の無さである。あれほど自己を中心に描きながら、自意識が全く無い。当時の作家たちは自身の自意識 の残存を言い当てられたようで、ある意味慄いたたのである。そして志賀直哉もまた驚異的な自意識のない主客の統一をやってのけた。

 武者小路や志賀という人は、私は感性だけの作家とは決して思わない。非常に知的であるし、論理的だと思う。彼らの数少ない批評には見事な論理があるし、そ れはずっと深く思考してきた人間のものだ。彼らは彼らのしっかりとした思考活動をもとに自意識を棄脱するやり方を見つけたのである。

 自意識を捨てる、その方法の一つは、意志であろう。純粋に高みを目指す意志。対象を完全に把握しようとする意志。いま以上の自己を求めて生きる意志。その意志の純化が、我々を自意識から本当の意味で連れ出す。

「良くありたい」という、人間が根源的に持つ意志は自意識ではない。自意識からそれを引き下げることはない。真顔になることを避けるのは、ほとんどの場合自意識である。そのとき文学は退潮する。

(2013.10.25)

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人文学の意味

 菊池寛の「後世なんてものは信じない」という言葉に、志賀直哉は、自分はその逆だという感慨をもらしていたが、まあ、現在、菊池の思想が完全に勝ったわけである。そう痛感することが多い。それで人間が幸せになれるとは思えないが。

 人文系の学問とは、すぐに俗物的な権威主義と無責任な経済原理に流れていく社会の中で、自己の精神を高潔に保つために、最も必要な学問ではなかったか。

 お金があっても、権力があっても、優しい家族がいても、人間は不幸な時がある。その逆であっても、幸福を感じる時がある。そんな単純な人間の原理をきちんと知っているのが、人文学ではなかったか。

 人文系を蔑ろにするようなことを言う人には、「あなたは幸せか」と問いたい。教養云々ではなく、人間とは何か知っている人は、決して人文系の発想を馬鹿にしない。

 一人の人間が晩年に見る風景というものを、私たちは絶えず考えておく必要があるのだ。

(2013.9.20)

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苦悩の無い文化

 現在の社会の問題については、まずなにより、知識人や芸術家の思考に淵源があると私は思っている。自分がそこに携わっているからこそ、余計はっきりと感じ る。知識人や芸術家の大半は、自分がこの状況を生み出したとは夢にも思っていない。しかし社会に対し、知や芸術が与える力を侮ってはいけない。

 自分の仕事のせいで、現在の社会がこうなった、という痛恨を感じる知識人や芸術家が欲しい。それは思いあがりではない。自分の仕事の本当の重さを知っているということである。

 自分の仕事なんて読まれない、参照されない、と思うのは謬見で、言葉を使う限り、必ず世界に何らかの石を投じていることになる。軽々しく吐けば世界において言葉は見下され、真っ直ぐ声をあげれば、言葉の力はその分強くなる。

 生動する時代の中で、言葉がさまざまな回り道をすることはある。しかしその迂回が、本当に言葉の力を高めるものであったかは、絶えず省察されねばならない。十年二十年を見越した、本当に必要な「韜晦」であっただろうか。

「遊び」や「好事家」を提唱することに、意味のあった時代もあった。でもそれは、傍らに極限化された「真顔」があって、意味を持つ「軽薄さ」だった。

 そしてこれほど真顔にならなければいけない文脈で、笑いだけが空疎に残っている。今の「笑い」も「遊び」も「無意味」も何も解放感がない。何が起こっているか、考えないようにする薄暗い幕として機能しているようだ。

 あと30年もすれば、こう言われる。「どうしてこの時代の人間は、本気で批判しなかったのだろう?」「どうして悲劇的な問題を知りながら、本気で取り組まなかったのだろう?」しかも「文化」は大変な産業に膨れあがっていて、とても国民は「文化的」なはずなのに……。

 私たちはすでに、随分手酷い代償を払っていると思うが、本来人間が持つ「真顔」の回復には、まだまだ足りないのだな。一世代前の「逃避」の亡霊が私たちを奥から動かしている。もはや意味の持てなくなった「逃避」……。そして「大衆化」という強迫観念の亡霊……。

 将来、ジャーナリズムを発行部数順に重要と見なして研究すれば、今日の時代は、まことに人々は幸せだったと結論づけられるだろう。実際私たちが、社会で目 にする9割の文章は、私たちを楽しませようとして作られている。それを買う私たちは実に楽しんでいることになる。苦悩を描く文章はただ少ない。

 過去には、苦しいから娯楽を求めるのだ、という時代もあっただろう、だが果たして現代はそうだろうか? その娯楽の前に、本当に自覚された苦悩はあっただ ろうか? いや苦悩はある。実に危機的な、苦しい時代のはずなのだが。不思議と私たちは「文化」に苦悩を求めない。最も戦う力のある文化に。

(2013.7.17)

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遊びと時代

『芸術は遊びであるべきだ、と彼は言った。しかし彼は、どうやって遊べばいいかわからなかった。』……ベールイは、ある芸術家について、そのような主旨で評している。

 それなりに感じるところのある評価で、「遊ぶ」ということもまた、簡単ではない。昨今は、遊んでいるかのような人は多いけれど、本当に遊びに我が身を捧げて楽しんでいる人はいないように思える。

 我々のほとんどの「遊び」の内には澱がある。逃避であり抵抗であり、罪悪感であり、自己嫌悪であり、純粋な喜びの感情と言うには、あまりにも悲しい無数の濁りがある。

 遊ぶためにも、理論が必要な時代なのであろう。真面目な方がいい、と言うのは、そちらの方が今の時代、純粋な感情に近いからである。「回り道」は意味があ るようで、人を帰路につかせない時がある。純粋な動機と純粋な行動、真っ直ぐにそれをしていても、時間が足りなくなる時代というのもあるのだ。

(2013.5.17)

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対象への敬意

「ゲーテは現実から逃避して、現実とは無縁の、抽象的な思想世界を自分の内部に創造する、という方向をとりません。反対です。彼は現実の中に沈潜します。 そしてその永遠の変化、その生成と運動の中に、不変の法則を見つけ出そうとします。彼は個体に向き合い、個体の中に原像を看取しようとします。理念は「灰色の理論」に属する、空虚な一般概念のことだったのではありません。豊かな具体的内容を持った生命存在の本質的な基盤のことであり、生きいきとした、見えるものだったのです。ゲーテの意味での「理念」は、色や形と同じように客観的なものなのです。色や形が見える人には見えるように、理念も見える人には見えるのです。」(シュタイナー)

 ゲーテがカントのすぐあとの人間であることを思えば、実に早くカント主義からの解放の論理を示していたとも言える。20世紀初頭のシュタイナーの戦いも、カントとの戦いだった。ジンメルもカントとゲーテを重要な対と見なす。芸術が即くべきはどちらだろう。

「芸術家が私たちの前に提示する対象は自然の中の対象よりも完成されています。しかしその完全性は本来対象そのものに内在している完全性なのです。対象が自分自身を超えていくことの中に、しかも対象の中に秘められているものだけを土台にして、美が存在するのです。ですから、美は非自然なのではありません。」(シュタイナー)

 だから対象には最大限の敬意を払う。対象の持つ完全な美を徹底して引き出す。本当の芸術家は対象を軽んじたり貶めるようなことを絶対にしない。「対象を見 てやっている」というような、対象よりも自分を高い位置に置く錯覚をしない。対象の美を完全に引き出しているか、芸術家は極限まで責任を負う。

(2013.5.15)

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作家と批評家の結託

 文学はもちろん感覚に就く芸術なのだけど、最近の作品はあまりにも感覚に論理を通すことを投げすぎているように思える。野放しに感性で書き散らし、批評家に上手いこと高度な主張を言い当ててもらうのを待つ、という姿勢が見える。作家と批評家の奇妙な結託? 

 批評家も相手が論理を省みない「感覚」ゆえ、反論もないので実にやりやすい。ひどくなると思わせぶりな「感覚的」キーワードをわざと散りばめて、批評家の 関心を惹くよう媚びる。それは論外として、作家の側が論理を批評家に明け渡すのは絶対的によくない。小説は小説として自立しなければならない。

 登場人物が感性のみで動き、「思考」を欠落させているような人間像がやたらとよく目につく。人間として不自然である。感性のみの未熟な人間を勝手に期待し て愛玩しているのだろうか。どんな人間でも一定の年齢になれば激しく思考している。思考するのはもっともっと理解したいと切望するからである。

 瞬間的な感性のみの礼賛は人間の高次のあり方の希求を阻む。理論の領域を侵犯されまいとして、感性ばかり期待する批評が小説を衰弱させたのか。

 小説は一つの理論であるし、そこに描かれる感覚はすべて、考え抜かれた理論の体系にしっかりと貫かれていなければならない。作家は狭義の「理論的」な言い方こそしないかもしれないが、絶対に批評家よりもはるかに理論的でなければならない。

 作家自身が理論の整序を投げ出して、「祝祭」や「飛躍」などの言葉を待つのは最もまずい。
 小説家の感性には、あり得べき人間の理想も、あり得べき共同体のあり方も、現行の社会のあり方への批判も、選ぶべき哲学もすべて宿っている。だから本当の小説家はそれを問われても答えることができる。盲目的な感性ではなく、最高度の抽象に至る明晰な感性なのだ。

(2013.5.14)

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批判力のある「笑い」か

「パロディ」やら「冗談」やら「言葉遊び」やらを軽薄に賞賛しているうちに、現実の恐ろしい逆襲にあうことになる。その文学理論ではただちに霧散することになるだろう。「現実に接触できない」などと言うのは惚けている証拠だ。

 かつての「サブカルチャー」の「遊び」には最低限の風刺意識があったはずだが。現在では政治とは関係の無い「遊び」と見なされて盛り上がる。責任も矜持も無い。そうした「遊び」が知らず最悪の政治に加担することがあり得るのだ。
「笑い」があってもいい。「真面目な顔をするのが恥ずかしい」という自意識はわかる。しかし何事も時と場合だ。今は間違いなく厳粛にならなければいけない時代である。「笑い」が批判力を持てるだけの愚直な真面目さはとうに失われている。はき違えてはならない。

 これから起こる子どもたちの不幸を知りながら、へらへら笑っている大人となっていないか。ひどい社会条件を作っておいて、その全ての辻褄を子どもに負わせ るようなことを平気で選択する。俺は真面目ぶらない、これは「笑い」であり「遊び」だと。いい加減そうした幼さを脱却しなければならない。

(2013.4.28)

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