定理一八 何びとも神を憎むことができない。
証明 我々の中における神の観念は妥当かつ完全である(第二部定理四六および四七により)。ゆえに我々は神を観想する限り、その限りにおいて働きをなすものである(第三部定理三により)。したがってまた(第三部定理五九により)神の観念を伴ったいかなる悲しみもありえない。言いかえれば(感情の定義七により)何びとも神を憎むことができない。Q. E. D.
系 神に対する愛は憎しみに変ずることができない。
備考 しかし次のような駁論がなされるかもしれぬ。我々は神をすべての物の原因として認識するのだから、まさにそのことによって我々はまた神を悲しみの原因と見るものである、と。だがこれに対して私は次のごとく答える、我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて悲しみは受動であることをやめる(この部の定理三により)。言いかえればその限りにおいてそれは悲しみであることをやめる(第三部定理五九により)。したがって我々が神を悲しみの原因として認識する限り、我々は喜びを感ずるのである、と。
私はこの言葉を文学者が目指す世界として読む。この不思議な言葉は、優れた文学者たちによって幾度も果たされたきた。
なぜ悲しみの原因を認識することが喜びとなるのか。原因を認めたところで、やはり目の前の悲しみに人は覆われてしまうのではないか。だが悲しみというものを、本当の姿で書くことができた時、文学者は喜びを感じるのだ。悲しみを本当に把捉した時、幸福を感じるのである。
我々は日々、悲しみながらも、悲しみの本当の姿をほとんど捉えてはいない。悲しみに受動のままにいる。悲しみをそうして耐えるのは一つの生ではある。しかし、それがすべてではない。
小林多喜二の文学は、貧しき人々の苦しみと悲しみを書きながら、深い歓喜が漲っている。そこにはあるのは悲しみと苦しみと怒りである。だが同時に、何処までも悲しみの深部に迫り、ついに悲しみの本当の姿に触れた多喜二の喜びがはっきりとある。読む我々にも、その喜びは強く伝わる。
書くこと、表現することが、人間の救済になるのはそうした時であろう。そしてそれはもう、救済よりも大切な段階に向かっている。