丸山真男が高見順に「どういった読者を念頭において書いているのか」と尋ねたとき、高見は「自分のために書いている」と答えた。
近年「自分のために書く」という姿勢は、単なる自己満足やナルシシズムのように見なされることが多くなった。「社会のために」「大衆のために」と訴えた、丸山の時代以来とも言えるだが「自分のために書く」ということは、ナルシシズムではない。本当に「自分のため」だけに書くことは難しいのだ。
自分の作品が、誰かに作用し、誰かの感情を動かすことがあれば、非常な喜びとなる。一人の世界で作りたい人間などいない。あらゆる仕事同様、何らかの反応も、手応えも人間はつねに欲しい。求められれば応えたい。自分の仕事がもたらした意味を目ではっきり見てみたい。
しかし、そうした動機はあっという間に反転する。「誰かのための仕事」は、すぐに、「誰かのせいで駄目になった仕事」になる。「読者のために書く」ということは、責任を読者に負わせることでもある。読者が求めたから、時代が求めたから、大衆が求めたから、この作品はこうなった。そうした意識が深く作家のうちに根ざしてしまう。
「自分のために書く」とは、すべての責任を自分で負うことである。自分だけが望み、自分だけが目指し、そして自分だけがその達成の度合いを知っている。自分一人が望んだことなのだから、付随する悲劇があっても、すべて自分の責任である。誰のせいでもない。それを知って、あえて書くことである。そうした背水の陣を敷いた姿勢だからこそ、文学は力を持つ。安易に誰かに責任をゆだねてはいないのである。
「自分のために書く」とは、他者がいない姿勢ではない。むしろ自分のうちに強力な他者を作り出さねばならない。最大の批判者を自分のうちに持つのである。最も遠い読者は自分のうちにいる。
作家はやはり競技者に似ている。自分が何処までゆけるか、ただそれだけが問題である。声援者には感謝しても、声援者のために走る人間はいない。そうした冷厳な強さが引き起こすものがある。
出会うこともなかった。話すこともなかった。同時代にさえ生きていなかった。あったのは彼の作品だけである。しかし話を交わした沢山の人間より、はるかに重大な意味を持つことがある。本当の文学の読者とは、そうした存在である。